日本における最古の国産ワインは、1870年(明治3年)に山梨県甲府市で製造された物だとされてきました。
しかし、江戸時代初頭の寛永4年(1627年)には既に、豊前国小倉藩主・細川忠利の命により国産ワインが作られていたという記録が発見されました。
今回は日本におけるワインの歴史と、史料が残る日本最古の国産ワインを再現した『伽羅美酒』を味わってみたいと思います。
日本におけるワインの歴史
ワインに限らず、日本における酒造りの製法や技術に関する文献は近世まで少なく、平安時代の『延喜式』以降は興福寺の僧侶が16世紀半ばに記した『多聞院日記』まで、ほぼ存在しないそうです(吉田元[2015]『ものと人間の文化史172・酒』法政大学出版局 P.9)。
従って、酒造りの歴史などはワインのみならず、日本酒なども含めて、限られた文献などの史料から研究されているそうです。
その点を踏まえた上で、調べた内容を以下にまとめてみましたのでご覧ください。
ぶどうの日本伝来はいつ?
ぶどうの日本伝来は奈良時代です。
日本に伝来した最古のぶどうは甲州種という品種のぶどうで、原産地のヨーロッパからシルクロードを通って唐に伝来し、唐から日本へ渡来しました。
奈良時代の歴史書『古事記』と『日本書記』には、おそらくぶどうだと思われる果物が登場しますが、これは縄文時代から日本にあった山ぶどうの類だと思われます。
また、日本における最古のぶどう栽培は、飛鳥時代から奈良時代にかけて日本各地を行脚した仏僧・行基が、養老2年(718年)に甲斐国勝沼(現在の山梨県甲州市)の柏尾山大善寺にて、薬種園を開いて甲州種ぶどうの栽培を始めたという説があります。
ですが実はもう1つ説があり、それは平安時代末期の文治2年(1186年)、甲斐国勝沼に住む雨宮勘解由が、山中で見つけた珍しい蔓草を育てると5年後に甘い果実ができたことが、ぶどう栽培の最古だとする説です。
雨宮勘解由は発見した野生のぶどうを、城徳寺の畑で栽培しました(江原絢子・東四柳祥子[2011]『日本の食文化史年表』吉川弘文館 P.47)。
いずれにせよ、甲斐国勝沼周辺では鎌倉時代から国産ぶどう栽培が広まり、江戸時代には既に名声を集めていました(ただし、生食やリキュールにして飲んだ)。
ちなみに、これらのぶどうは外来種のぶどうですが、他に縄文時代の遺跡からぶどうの種が出土しています。
縄文時代の遺跡から種が出土した方のぶどうは在来種の山ぶどう(学名 Vitis coignetiae)であり、鎌倉時代から栽培されたのは外来種のヨーロッパブドウ(ヴィニフェラ種・学名 Vitis vinifera)です。
他に、山野には在来種の蝦蔓(学名 Vitis ficifolia)というぶどうもあり、山ぶどうと共に古くは「えびかずら」と呼ばれていました。
ただ、縄文人がぶどうからワインを醸造していたかというと、有識者の見解は賛否両論あるそうです。
いろいろ広い視野で考えてみると、縄文人がワインを造って飲んだというのはどうもあやしい。三内丸山遺跡のようにガマズミやニワトコの実まで交じっているのに、ヤマブドウ=ワインに結びつけるのは無理がある。ヤマブドウからそう沢山のジュースはとれないし、ヤマグワやサルナシのようにジュースの多い漿果は他にもある。縄文人が、野生の果実を使って飲み物を造ったということはあり得るかもしれないが、それは酒というより薬として飲んだのかもしれない。
引用元:山本博[2013]『新・日本のワイン』(早川書房)P.30〜P.31
私個人としては、上記に引用した山本氏の見解がしっくりくると思います。
すなわち、縄文人が「ワインを醸造して飲んだ」という訳ではないと考えます。
ワインの日本伝来はいつ?
奈良時代に甲州種のぶどうが伝来していた日本ですが、室町時代までぶどうは生で食べるだけでした。
ワインの日本伝来は室町時代後期頃だと思われます。
ポルトガルの宣教師であるルイス・フロイスの日記には、日本にワインがなくて困っているという記録があります。
日本に米から造る酒はあったが、ブドウから造るワインがなかったということを証明する決定打は、ポルトガルの宣教師ルイス・フロイスの日記である。好奇心旺盛というか、布教上日本のことをよく知らなければならないという心掛けからか、実に熱心に日本人の生活を観察し、記録に残している。その中でワインのないことに困り、米から造った日本酒に閉口しているのである。
引用元:山本博[2013]『新・日本のワイン』(早川書房)P.33
ただ、フロイスが初めて上洛したのは永禄7年12月29日(1565年1月31日)ですが、これよりも前にワインを飲んだ記録を日記に残している日本人がいます。
室町時代後期から戦国時代初期にかけて関白・太政大臣を務めた近衛政家の日記『後法興院記』に出てくる「珍蛇」というお酒を飲んだという記述が、日本におけるワインの最古の記録です。
『後法興院記』には、文明15年(1483年)に近衛政家が「珍蛇」を飲んだという記述があります。
この「珍蛇」は、スペインやポルトガルから伝わった赤ワインだと考えられています。
赤ワインの「赤」はポルトガル語で「tinto」と言うので、日本に伝わる際に「tinto」が「珍蛇」になったとする説があります。
日本人で最初にワインを飲んだ人は誰?
初めてワインを飲んだ日本人は、文明15年(1483年)に「珍蛇」を飲んだ近衛政家です。
前出の通り『後法興院記』には、文明15年(1483年)に近衛政家が「珍蛇」を飲んだという記述があります。
(ただし、あくまでも現在明らかになっている史料に基づきますので、今後、新たな史料が発見されれば変わるかもしれません)
その後、天文12年(1549年)にはイエズス会の宣教師フランシスコ・ザビエルが鹿児島に到着しました。
ザビエルはキリスト教を布教したい地域の大名らに、ポルトガルから持ってきたワインを献上していきます。
このザビエルが持ち込んだポルトガル産ワインは、あの織田信長も飲んだそうです。
オランダやポルトガルとの交易が盛んになると、さらにワインは広まっていきます。
特に九州に多く広まったキリシタン大名らは、キリスト教のミサにワインを使用しました。
キリスト教において赤ワインは「神の子(イエス・キリスト)の血」という宗教的意味があり、他にパンは「神の子の肉」とされ、共に『最後の晩餐』に登場します。
また、豊臣秀吉による九州征伐が行われる頃になると、秀吉は博多でポルトガル船を訪れて赤ワインをご馳走になったという記録が残されています。
他にも、石田三成、宇喜多秀家、島井宗室らが南蛮茶会や大坂茶会を主催し、そこでワインが振る舞われたそうです(山本博[2013]『新・日本のワイン』(早川書房)P.34)。
しかし、豊臣秀吉によるキリスト教の禁教令が出されて以降は、ワインの普及も衰退していきました。
そしてキリスト教禁止の方針は徳川幕府に政権が移った後も継続され、ついに寛永18年(1641年)6月25日には、スペイン・フランスのぶどう酒などキリシタンが通常使用するものの国内販売・贈答を禁止しました(『長崎オランダ商館の日記』)。
その後、日本で再びワインが広まるのは明治期を待たなければなりません。
明治3年(1870年)になって、ようやく甲府の山田宥教と詫間憲久が「ぶどう酒共同醸造所」というワイン醸造所を設立し、甲州種のぶどうを用いてぶどう酒を試作しました(『たべもの日本史総覧』)。
ですが、日本国内でのワイン造りは困難を極め、近年ようやく輸入物のワインに劣らない美味しいワインがたくさん作られるようになりました。
徳川家康公はワインを飲んだのか?
徳川家康公もワインを飲みました。
むしろ、家康公はワインが好きで、特に甘口のワインが好きだったようです。
家康公とワインの出会いは、慶長10年(1605年)に当時スペイン領だったフィリピン諸島の長官宛てに送った書簡に、その記録が残されています。
その後も、家康公は何度かワインの献上を受けています。
徳川家康公とワインの年表
和暦 | 西暦 | 月日 | 事項 |
慶長10年 | 1605年 | - | 徳川家康公、フィリピン諸島長官(スペイン領)に送った書簡に「予は閣下の書簡二通併びに覚書の通り贈物を領収せり。中に葡萄にて作りたる酒あり、之れを受取りて大いに喜べり」と記す |
慶長14年 | 1609年 | 10月6日 | 家康公、スペイン領のフィリピンからぶどう酒2壺を献上される(『徳川実紀』) |
慶長16年 | 1611年 | 9月15日 | 家康公、江戸城二の丸でフィリピン人からぶどう酒などを献上される(『徳川実紀』) 家康公、スペイン国王大使セバスチャン・ビスカイノからぶどう酒2樽(おそらくシェリー酒および赤ぶどう酒)を献上される(『ドン・ロドリゴ日本見聞録』) |
慶長18年 | 1613年 | 8月22日 | 家康公、フィリピン国王の使者からぶどう酒や氷糖を献上される(『徳川実紀』) ※イギリス国王の使節ジョン・セーリス、あるいはスペイン国王の使節からとも(『セーリス日本航海記』) |
元和2年 | 1616年 | 4月17日 | 家康公薨去。 『駿府御分物御道具帳』に記された家康公の遺品の中に「葡萄酒二壺」とある(『大日本資料』第十二編之二十四) |
出展:江原絢子・東四柳祥子[2011]『日本の食文化史年表』(吉川弘文館)より筆者抜粋・加筆
家康公の遺品に「ぶどう酒」があったなんて、驚きですね。
日本で最初に作られた国産ワインは?
冒頭で示した通り、江戸時代初頭の寛永4年(1627年)から寛永7年(1630年)にかけて、豊前国小倉藩主・細川忠利の命により国産ワインが作られていたという記録が発見されました。
ですが、これはあくまでも「国産ワイン製造に関する最古の記録が小倉藩に残っていた」ということであり、日本最古の国産ワインだったかは不明です。
というのも、記録が残されていないだけで「忠利の前に国産ワインを製造した事例」はあったかもしれないからです。
ただし、この忠利が国産ワインを醸造したという記録は、細川家伝来の美術品や史料が保管されている永青文庫に残る一次資料に記されています。
そのため、現状では忠利による国産ワイン醸造が、記録に残る「日本最古の国産ワイン」です。
また、日本において酒造りの製法は口伝で伝えられる場合が一般的であり、日本酒の製法についてもほとんど記録が残されていません。
さらに、徳川幕府がキリシタン禁教令を出したため、キリスト教に関連するとされたワインも流通が衰退していったこともあり、ワインに関する記録は中々残されなかったのかもしれません。
ちなみに、徳川家での国産ぶどう酒の記録は正保元年(1644年)になります。
『事跡録』に「殿様御道中ニテ酒井讃岐守殿ヨリ日本制之葡萄酒被指上之」とあり、大老・酒井忠勝が参勤交代で名古屋に帰る途中に、尾張藩主・徳川義直に国産ぶどう酒を献上したという記録があります。
ただし、ここでいう「日本製葡萄酒」はぶどうを醸造したワインではなく、江戸時代に普及していたリキュール(混成酒)の「ぶどう酒」でした。
寛永5年(1628年)の国産ワイン醸造
永青文庫の研究に精通している後藤典子熊本大学永青文庫研究センター特別研究員によると、現在発見されている史料においては、日本最古の国産ワインを造った記録が寛永5年(1628年)の『奉書』に記されているとのことです。
この寛永5年の『奉書』とは、小倉藩主・細川忠利がワイン造り(ぶどう酒造り)について出した命令を、奉行所が記録したものです。
葡萄酒造りに関する史料の初見は、寛永五年の「奉書」である。これは藩主忠利からの命令を奉行所が記録したもので、その命令に奉行組織がどう対処したかまでも記されている。寛永五年八月二十八日の箇所に次のようにある。
【史料1】
ぶだう酒を作り申時分にて候間、上田太郎右衛門尉ニ便宜次第申遣、作せ可申旨、御意之由、斎奉之由にて野田源四郎申来候事、
【現代語訳】
葡萄酒を造る季節なので、上田太郎右衛門によい時期に命じて作らせるようにとの殿様の御意を、斎(忠利側近の朝山斎助)が殿様から奉って、野田源四郎が使いとして奉行所に申してきた。引用元:公益財団法人永青文庫・熊本大学永青文庫研究センター[2020]『永青文庫の古文書 光秀・葡萄酒・熊本城』(吉川弘文館)P.102〜P.103(著:後藤典子)
上記の文献には、他にも細川家で実際に国産ワインが造られたという事実を示す貴重な史料が、発見されているもの全て示されており、後藤先生の解説も加えられています。
この「記録に残る日本最古の国産ワイン造り」について、後藤先生が示されているポイントを以下に引用します。
最後に本章の最も重要なポイントを四点にまとめておこう。
(一)細川家で造られた葡萄酒は、北部九州在来の「がらみ」(山ぶどうの一種エビヅル)を原料とし、黒大豆を用いて発酵を促進させた葡萄酒だったと判断されること。
(二)葡萄酒を造ったのは寛永四年から七年までの短い期間に限られること。まさにキリシタン禁教が厳しくなる時期にあたり、細川家の葡萄酒製造はガラシャのミサとはまったく関係ないこと。
(三)葡萄酒はキリシタンを勧めるのに必要な酒だと認識されていたので、キリシタン禁教が厳しくなる過程では、忠利もその製造は危険な行為だと認識していたこと。それでも忠利が葡萄酒造りを命じたのは、薬としての効能を高く評価していたためであること。
(四)葡萄酒を造った上田太郎右衛門とその一族は、南蛮文化や技術を身に付けた者たちであり、忠利は上田をリクルートすることによって、彼らを通じて積極的に南蛮の文化や技術を取り入れ、自国のものにしようとしていたこと。それが、大航海時代末期における西国大名の姿であったこと。引用元:公益財団法人永青文庫・熊本大学永青文庫研究センター[2020]『永青文庫の古文書 光秀・葡萄酒・熊本城』(吉川弘文館)P.133(著:後藤典子)
日本最古の国産ワインを考える上で、必読の書だと思いますので、ぜひご一読ください。
また、後ほどご紹介する『伽羅美酒』を飲む前に読んでおくと、その味わいは一層味わい深く感じられそうですね。
ちなみに、忠利がワインを薬として評価していたと示されていますが、酒を薬として評価するという考え方は当時既にありました。
例えば、ワイン好きでもあった徳川家康公は、国産の忍冬酒を薬として評価しており、健康増進のために愛飲していたほどです。
江戸時代の「ぶどう酒」とワインの違いは?
江戸時代の「ぶどう酒」はワインではなく、リキュール(混成酒)としての「ぶどう酒」が作られ、人々に飲まれていました。
人見必大が元禄10年(1697年)に刊行した『本朝食鑑』によると、ぶどうは古くは「えび」と呼ばれ、甲州が一大産地であり、次いで駿州でもよく生産され、共に江戸へ運ばれて販売されていたそうです。
また、山ぶどうは江戸時代には「えびづる」と呼ばれ、前出の『本朝食鑑』では「酒にかもすと甚だよい」と記されています。
この「山ぶどう酒」は一般に各家で作られていたそうですが、その製法はワインとはかなり異なります。
江戸時代に作られていた「ぶどう酒」の製法や味について、食文化史研究家・永山久夫先生の著書に紹介されていますので、引用します。
山ぶどうの酒は、氷砂糖などを加えて作るために、味わい極めて甘味であり、疲労回復などに役立つのはもちろん、精力強化にも役に立っていたようです。
引用元:永山久夫[2014]『絵でみる江戸の食ごよみ』(廣済堂出版)P.135「ぶどう 長寿の妙薬とされたぶどうの酒」
何と、江戸時代の「ぶどう酒」は氷砂糖を加えて作られ、非常に甘い味だったようです。
ぶどう酒の醸造時に氷砂糖を加えた理由は、ヨーロッパの気候と異なり温暖湿潤な日本で育つぶどうでは糖度が足りず、発酵の過程で糖分を加えなければ酒にならなかったためです。
というのも、酒のアルコールは酵母がブドウ糖を分解して作り出すので、糖分の足りないぶどうに氷砂糖を加える「補糖(シャプタリザシオン)」をすることで、酵母が分解するブドウ糖を補って醸造したという事でしょうか。
江戸時代に作られていた「ぶどう酒」の製法について、もう少し詳しく見てみましょう。
江戸時代元禄期にはさまざまな薬酒づくりが流行したようである。食の百科事典とも言うべき人見必大(一六四二?〜一七〇一)著『本朝食鑑』(一六九七)に葡萄酒のつくり方が紹介されている。
ブドウの皮を取り去って、汁と皮を合わせ磁器に盛り、一夜置く。翌日汁を炭火で沸かしてから冷やし、三年物の諸白酒(上質の日本酒)と氷砂糖を加えて甕に入れると、一五日くらいで赤ワインに似た酒ができる。年を経たものは蜜のように濃い紫色で、味はオランダのチンタに似ているとある。原料はエビヅル、ヤマブドウである。
この場合はブドウの果汁をアルコール発酵させず色素を抽出、着色しているので、酒も「リキュール」とよぶべきものである。引用元:吉田元[2015]『ものと人間の文化史172・酒』(法政大学出版局)P.11
この「珍蛇」という酒は前出の『後法興院記』に出てくる、日本におけるワインの記録として最古のワインです。
従って、この『本朝食鑑』で紹介されている製法で「ぶどう酒」を醸造すれば、室町時代〜戦国時代にあった「珍蛇」に近い味を再現できるかもしれません。
また、江戸時代後期の戯作者であり『東海道中膝栗毛』で有名な十返舎一九も、何と「ぶどう酒」の製法を記した本を出していました。
また戯作家の十返舎一九(一七六三〜一八三一)が著した『手造酒法』(一八一三)にも、「葡萄酒」と「山ぶどう酒」がある。これも家庭でつくる果実酒である。葡萄酒の方は焼酎と生酒に白砂糖、ブドウの実、竜眼肉(種子)を加える。山ぶどう酒は、焼酎、麹、糯米、ブドウでつくり、強飯、麹、ブドウを重ねて揉み合わせる。中国や朝鮮の葡萄酒も麹や砂糖を加えるが、おそらく果汁のみでは糖分が足りないので、甘味を増やすために、また習慣として酒づくりの際は麹を加えたのである。
引用元:吉田元[2015]『ものと人間の文化史172・酒』(法政大学出版局)P.11
ぶどう酒造りの際にぶどうの他に加える材料について、『本朝食鑑』では三年物の諸白酒(上質の日本酒)と氷砂糖を加えるのに対して、こちらの『手造酒法』では焼酎・生酒・白砂糖・竜眼肉の種を加えています。
また、同じく『手造酒法』にある山ぶどう酒造りでは、焼酎・麹・強飯に炊いたもち米を加えています。
ただし、いずれの製法もワインとは呼べず、やはり江戸時代に製造されていた「ぶどう酒」はワインではなくリキュール(混成酒)でした。
明治期以降の日本におけるワインの普及
産業として国産ワインが製造されたのは、明治時代に入ってからでした。
その後、国内の醸造家たちの努力の積み重ねによって、近年では世界からも評価される上質なワインを作り出すまでに成長しました。
料理が醤油味の多い日本では、食中酒としての酸っぱい本格的なワインはなかなか普及せず、先人たちは苦労した。明治以降まず滋養強壮を売り物にした「甘味葡萄酒」がつくられはじめ、近年になって食事の洋風化が進み、国産ワインもめざましく水準が向上してきた。
引用元:石垣悟[2019]『日本の食文化5 酒と調味料、保存食』P.52
日本最古の国産ワインを再現した『伽羅美酒』とは?
前述の通り、正確には「史料が残っている中では日本最古の国産ワイン」というのが正しいですが、何と豊前国小倉藩主・細川忠利が作らせたワインを再現した『伽羅美酒』が、限定1602本だけ製造されました。
1602本というのは、細川家が小倉城を改修した慶長7年(1602年)にちなんでいるそうです。
今回、何と『伽羅美酒』を入手することができましたので、そのお味をご紹介したいと思います。
ちなみに『伽羅美酒』の「伽羅美」とは山ぶどう(エビヅル)のことで、主に九州・山口地方の方言だそうです。
また、「伽羅美」の値段について後藤典子先生は以下の通り示しています。
上田太郎右衛門に仲津郡で葡萄酒を造らせる手伝いに、御鉄炮衆の友田次郎兵衛与の中村源丞を遣わした。「がらみ」と、薪の代金として五匁銭五貫文を遣わした。
(中略)
五匁銭で五貫文というのが、現在の貨幣価値でいくらかというのは、米の相場が変動するので様々な学説があり大変難しいが、だいたいの目安として二十五万円から高くて五十万円といったところだろうか。
引用元:公益財団法人永青文庫・熊本大学永青文庫研究センター[2020]『永青文庫の古文書 光秀・葡萄酒・熊本城』(吉川弘文館)P.102〜P.103(著:後藤典子)
江戸時代初期の「がらみ」は高級な食材だったようです。
日本最古の国産ワインを再現した『伽羅美酒』のお味は?
それでは、さっそく『伽羅美酒』を飲んでみます。
『伽羅美酒』は、五ヶ瀬ワイナリーという宮崎県のワイナリーが製造しています。
『伽羅美酒』のボトル裏面には、原材料として「山ぶどう」と書かれています。
前述の通り『伽羅美酒』の『伽羅美』とは九州の方言で「山ぶどう」を意味しますが、原材料に山ぶどうを使用しており、忠実に再現されているようです。
『伽羅美酒』の香りは、少しツンとくる独特の香りがします。
しかし実際に飲んでみると、少し酸味の強めな果実味の強い味わいで、タンニンの渋みが舌に残る、野性味のある印象の味でした。
今回はミックスナッツをツマミに飲んでみましたが、『伽羅美酒』とナッツの相性が驚くほど良かったです。
同じ木の実同士、相性が良いのでしょうか。
これが細川忠利も飲んだ、記録に残る「日本最古の国産ワイン」の味だと思うと、歴史ロマンあふれる一本です。
日本最古の国産ワイン『伽羅美酒』はどこで買えるの?
記録に残る「日本最古の国産ワイン」を再現した『伽羅美酒』ですが、福岡県小倉市にある小倉城址の売店『しろテラス』で購入できます。
ただし、この『伽羅美酒』は製造本数1602本の限定品ですので、いつまで買うことができるかは分かりません。
ご興味のある方は、なるべく早く買うことをおすすめします。
ちなみに、この『伽羅美酒』のお値段は1本4,800円(税抜)です。
これを高いと思うか安いと思うかは人それぞれだと思いますが、歴史グルメにご興味のある方はぜひ味わっていただきたいと思います。
小倉城址を訪れる際は、ぜひ売店「しろテラス」にて『伽羅美酒』を買ってみてください。
【追記】令和5年1月8日
何と、豊前国小笠原協会さんが「ガラミプロジェクト」を立ち上げ、クラウドファンディングで『伽羅美酒』の製造に必要なガラミの現地生産と、現地産ガラミを使用しての『伽羅美酒』醸造を目指すそうです。
taka様、拡散にご協力いただきありがとうございます😊
このプロジェクトの歴史的価値をご理解いただき、嬉しい限りです。
taka様のブログもとても読み応えがありました🖋後世に遺していくため、これからも手を取りあっていければ幸いです。#伽羅美酒 #細川家が愛したワイン #400年前の日本ワイン https://t.co/dwxXJjU9Gu
— 豊前国小笠原協会 (@AgaramiOgasawar) January 4, 2023
この「ガラミプロジェクト」が成功すれば、将来『伽羅美酒』が一般的に流通する日が来るかもしれません。
今からとても楽しみですね!
参考文献・Webサイト等
永山久夫[2014]『絵でみる江戸の食ごよみ』(廣済堂出版)
吉田元[2015]『ものと人間の文化史172・酒』(法政大学出版局)
江原絢子・東四柳祥子[2011]『日本の食文化史年表』(吉川弘文館)
山本博[2013]『新・日本のワイン』(早川書房)
公益財団法人永青文庫・熊本大学永青文庫研究センター[2020]『永青文庫の古文書 光秀・葡萄酒・熊本城』(吉川弘文館)
石垣悟[2019]『日本の食文化5 酒と調味料、保存食』